慈照庵

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法話/法話案内写真

法話集

法話を掲載いたしております。各題名をクリックしてください。
(順次追加掲載してまいります。お楽しみに。)
私たちは日本人であり、普段より言葉や文字を使っております。その中でも普段使う言葉で、おそらく皆様方が本来は仏教語であることや、真の意味を知らぬであろう言葉で、命にまつわる法話をさせていただきます。
仏教の教えでは、私たちは本来、仏の世界におり、苦しみも悲しみも怒りも悩みも何もない幸福で穏やかな世界におりましたが、それらが混沌とするドロドロした娑婆の世界(この世)に修行として送られ、そしてまた仏の世界に戻っていくというものであります。
では私たちの命は娑婆のどこに送られたのでしょうか。まず父母の愛の元、母親の母胎に命を宿します。これを宿す命と書いて【宿命】といいます。
ではその宿されたありがたき貴重な命はどうするべきなのでしょうか。これは大切に生かし使っていく必要があります。これを使う命と書いて【使命】といいます。
そして大切に生かし、使ってきた命はどうなるものでしょうか。その方その方の人生が幸せであって、親や兄弟や子、孫や親戚、友人の皆様と出会えた素晴らしさ、ありがたさ、言葉にならぬそれらへの感謝や、素晴らしかったと生涯を見返した時の言葉にならぬ気持ちを見た時、神仏が優しくその方の命を寿ぐ(ことほぐ)事、これを【寿命】といいます。
そして何百万種と数ある生物の中で人間に生まれてこられたこと、約200か国ある中で穏やかな国に生まれてこられたこと、戦後や平和な時代に生まれてこられたこと、これらは神仏の見えざる手により与えられたものであります。
ですが、すべてが与えられたもののみで成り立っているわけではありません。人に対して優しく、助け合い、好き、好かれることによって、使命が生きとするものとなり、本来は親元に1人で生まれてきたのに、気づけば親以外にも大切な存在に囲まれているという事です。この巡りあわせ、幸福を運び、運ばれて生きた命を【運命】といいます。
そして宿命・使命・運命・寿命の4つをまとめて【人生】というのです。
始めは修行として送り込まれた命でありましたが、この運命次第でより素晴らしい寿命となるのです。そしてその人生を素晴らしかったと感謝しながら仏の世界へ帰り、次の世代にバトンを渡し、それを空高くから優しく見守るのです。
いかがでしたでしょうか、今回の宿命・使命・運命・寿命・人生という本来的な言葉の意味と同様に、何気にせず普段ある言葉に限らず身の回りの意味・本質を知ることや、感謝し貴重に感じながら生きることによって、悟りの考え方に近づくものであると私は感じます。

合掌

余談ですが【ありがたい】という言葉も仏教語であります。
ある男性が72歳を一期としてこの世を去りました。平均寿命より少し早目の旅立ちでしたが、生まれ持った寿命であります。その人の寿命は生れた時に決められている、そう思っていただければ供養に繋がるでしょう。その男性は72年間の人生を精一杯送られたと思います。その生き様に、ご苦労様でしたと申し上げたい。
 お釈迦様は「人生は苦なり」と申しておられます、生きるという事は苦しみに会うという事でもあります。しかし苦しいだけではあまりにもつまらない人生に成ってしまいそう、そこで「災い転じて福と成す」のことわざが有るように、苦しみと同じ程の喜びを…いや、より多くの楽しみを味わえる人生を送らなければ、折角人間としてこの世に生れて来た甲斐が無い。相田みつをさんの肥料という詩は「あの時のあの苦しみも、あの時のあの悲しみもみんな肥料になったんだなぁ、自分が自分に成るための…」プラス思考の詩です。不幸や災難から何か教えて貰うことです、何か大切なことを気づかせて貰うことです、そんなプラス思考に沢山気がつかせて貰うと、他人の倍も苦労したように思える人でも、人間に生れて来て良かったと思えて来るでしょう。
愛する家族との別れは人生最大の悲しみで有り、又苦しみでも有りますが、身内の死を通して何か大切な、何か大事なことに気づかせて頂ければ故人も喜んで下さると思います。
(お通夜を終えた晩に…)

合掌

亡くなった方は何処へ行かれるのでしょうか?何処へ行ったら会えるのでしょうか?
あの世に行けば会えるのでしょうか?あの世とは一体何処にあるのでしょうか?

私達の祖父母やご先祖様はこの地球上に生れた後、子孫(私達)を残し、土に戻られました。その後、土ぼこりとなり風や水に乗って何処か遠くの宇宙にでも帰って行ったのでしょう。いずれ私達もその身体は灰や土に分解され、原子となって宇宙に散らばっていくのかもしれません。
 身内を失うことは悲し過ぎます、もうこの世で会うことが出来ないのですから…
夜空の星を見上げて一方的に語り掛けることしか出来ないのですから…
 しかし、地球上の皆がいずれ宇宙に帰って行くのであれば、そう考えたなら遠い空に向かい声を掛けることも供養の一つかも知れません。そしてそこには先に逝った親や子供、そして友人達が集まっている「あの世」が在るのかもしれません。

供養を心掛けると、父母やご先祖様があってこそ今の自分の存在が確認できます。
そして「ありがとう」の感謝の言葉をあの世に掛ける供養は、この世に生かされている私達のまごころなのです。

お墓やお仏壇の向こうにある「あの世」に手を合わせることで「あの世」との心の通信も始まります。供養は形でするのではなく、心で行うものです。
貴方には聞こえますか?「あの世」からの励ましのメッツセージが……
(幼くしてこの世を去った子供さんのご法事の夜に…)

合掌

お釈迦さまですら、御年80歳で沙羅双樹の林の中でお隠れになられました。 私達は生れたからにはいつかは必ず迎える臨終の時……
今から覚悟だけはしておきましょう。 その人の人生がどうであれ、臨終の時だけは心を込めて見送ってあげるべきです。
近親者やその人が会いたがっている人達には連絡を取り、最後のお別れに悔いを残さないように致しましょう。
その人の手を握り、その人の足をさすり、安らかなる臨終を迎えられるように皆で祈念致しましょう。

合掌

仏教で葬儀をすると当たり前のように戒名を付けます。
「何故つけるのですか?」と尋ねても、葬儀をした証とか、皆が付けて貰っているからとか、全く漠然とした答えを返す僧侶もおります。
戒名は仏様の弟子になった時に頂く名前です。仏様の教えを信じて決められて事(戒律)を守り、教えに従って生活していきますと誓って授けられた名前を戒名と言うのです。 ですから本来は生前に受戒を受けて仏教徒となり、戒名を頂くのが理想のあり方です。
しかしながら現実は、亡くなってから戒名を授かり、葬儀の中でうやむやに受戒を受けて仏門に入るのがほとんどです。 キリスト教徒などは、生前に受戒(洗礼)を受けてクリスチャンネームを頂きます。
私達仏教徒も、もっと真剣に自分の宗教を見つめ直す必要があると思います。その一因として檀家制度にあぐらをかいた私達僧侶の責任もあります。
最近は核家族化が進み、葬儀をして新しく仏壇を持つ家庭が増えています。
そうした中で、宗教の意識が薄く、葬儀を出す時に何となく本家の宗派を継承している人が多いのではないでしょうか?
仏教でも宗派によっては教義も違いますし、僧侶によっても教え方が違います。
本家であれば先祖からの仏壇を守っていかなければなりませんが、新たに持つのであれば自分の好きな宗派、或いは自分の好きな僧侶を選ぶ事が出来ます。
もっと積極的に自分にあう僧侶や宗派を見つけ、仏様に帰依する心が育つ事を願います。
最近ではお金が掛かるので戒名はいらないという方や、生前の名前で葬式される方がおられます。戒名がなければ葬儀の意味がなくなり、単なるお別れ会になってしまいます。
先にも書いたように、戒名は仏弟子として生まれ変わる為の名前であり、仏様の智慧と慈悲の中に永遠の命を受けて導かれる為の大切な名前なのです。
そして戒名料は三宝(仏、法、僧)に帰依した証として、本尊様に喜捨する気持ちがお布施です。また、生前から信仰が厚く誠心誠意お寺に尽くした人に対しては、戒名料に関係なく、お寺がその善行に対して立派な戒名を贈る事で感謝と尊厳の念をあらわしていたのです。決してお金では買えない尊いものだったのです。
個人的には戒名は一つの平等であるべきとの考えも少しあるのですが、仏様にも如来や菩薩のように段階があるように、故人の善行や信仰心が良い因縁をもたらす事を考えると、その人にふさわしい戒名があって良いのでは・・・という方向に傾きます。
どちらにしても、付ける側ともらう側のモラルの問題で、個人にふさわしい戒名は本当は仏様だけが知っておられて、それに見合う縁を下さる事を確信します。

合掌

 秋のお彼岸も終え、「秋の交通安全週間」も終わりました。 交通安全には本来毎日気をつけなければならないのですが、どうしても疎かになってしまうので、その週だけは普段よりも特に交通安全に気をつけよう!!
それを誡めるのがこの手の運動の趣旨かと思われます。 仏教の世界にも、春と秋のお彼岸があり、いわば「仏道実践週間」とでもいいましょうか、その心掛けを強く持つべき週間であります。
しかし、特に秋のお彼岸は少し前にお盆を迎えた為か、春のお彼岸よりも少し淋しい気が致します。 毎日をしっかり仏道実践をされているので有れば特に問題は無いのでしょうが・・・
年に数回のご先祖様とご縁を結べる一週間です。 秋彼岸も大切にいたしましょう。 秋彼岸を省みて・・・・

合掌

 大切な人を亡くした時の底無し沼にでも落ち込むような悲しみの中で、もう二度と顔を見る事も声を聞く事も出来ない事に絶望します。
そして「自分が死んだ後、死後の世界での再会があるのかも・・・」と亡き人の行方を探そうとするでしょう。色んな宗教や思想が死後の世界を語っています。
いずれにせよ、私達も何時かは仏様の世界へと旅立つのです。後悔しない様な日々の生活を送りたいものですネ。そして、大切な人と死後の世界で再会した時に、沢山の楽しい「土産話」が出来ると素敵ですネ・・・
葬儀を終えての数時間後に・・・

合掌

 お盆に郷里に戻って来られていた御先祖様方も、皆様からの手厚いご供養を受けて、無事に御浄土へお戻りになられた事でしょう。  
暑さ寒さも彼岸まで・・・の言葉のように、お彼岸はちょうど春分、秋分の季節に行われます。気候は暑からず寒からず、昼と夜の時間は同じ、これらは仏様の教えである 「中道(ちゅうどう)を守れ、何事も極端をさけること」に通じます。
 彼岸とは、迷いの世界である此(こ)の岸から悟りの世界である彼(か)の岸へ到るという到彼岸(とうひがん)から名づけられた行事で、彼岸会(ひがんえ)と言われます。 お釈迦様は自分も他の人もともに幸福になる到彼岸として6つの教えを示されました。
●布施(ふせ)=物質であっても心であっても、人に喜びを分け与える事。
●持戒(じかい)=規律を守り、節制ある生活を行う事。
●精進(しょうじん)=目的に向かってたゆまず努力する事。
●禅定(ぜんじょう)=常に平静な心を持ち続ける事。
●忍辱(にんにく)=心を動かさずに耐え忍ぶ事。
●智恵(ちえ)=人生の真実を見極め、迷いを去って無上(真に悟る)の境地にいたる事。
お彼岸は中日(春分・秋分の日)を中に挟んで前後3日間です。 この1週間は仏様、御先祖様への報恩感謝のお寺参り、お墓参りを行います。
 私達の命は無数の命の誕生と死によって支えられています。私の先祖、そのまた先祖、その先の先祖とずーっと辿ると幾つの命が有った事でしょうか?
私達もいつかは子孫にとっての先祖と成ります。つまり死にます。明日死ぬと分かっていれば、のんびりインターネットなんてしているでしょうか? お彼岸には是非、命の尊さを想い、生かされているこの人生を有意義に過ごしているのかを省みて下さい。

合掌

 有名な詩人、西条八十師より「若き童謡詩人の巨星」とまで称賛され、大正時代に活躍した 金子みすずさんという童謡詩人がおられました。
昭和五年に二十六歳の若さで亡くなっております。
その童謡の二つを紹介します。
海の魚はかわいそう  お米は人に作られる
牛は牧場で飼われている  鯉もお池でふをもらう
けれども海のお魚は なんにも世話にならないし
いたずら一つしないのに こうして私に食べられる
ほんとに魚はかわいそう
とうたっています。
今一つ「星」という詩に、こうした詩に、作者のものに対する思いの深さ、心のやさしさを感じます。
金子みすずさんの童謡は、小さいもの、力の弱いもの、名もないもの、あたり前と思われるものの中に、尊いものをとらえて詠んでいます。
「昼のお星は目に見えぬ」「見えぬけれどもあるんだよ」「見えぬものでもあるんだよ」と詠んでいる言葉にも尊い心のひびきがあります。
 私達は目に見えぬものはないと思いがちです。
しかし、私達の目は、真っ暗闇の中では何も見えません。
光を頂いてはじめて見えるのです。目が見えるのも光のお陰です。
 仏様、仏様のお慈悲というものも、目には見えないものです。 しかし、目に見えないものはないのではなく、見えぬものでもあるのです。
それは尊く心に頂くものでもあります。

合掌